キムタツこと木村達哉・灘中学校/高等学校英語科教員のブログでこういう発言を見かけました。
「で、英語力向上の土台となるのは母国語である日本語力です。それは言うまでもない。外国語の力が母国語の力を超えることはありませんので、母国語力が低い人は外国語の力も低いということになります。」(キムタツブログ)
キムタツ氏によると、日本語力が低い人(国語の成績が悪い人)は英語力も低い(英語の成績も低い)そうです。こういった言説はとくに小学校に英語教育を導入することに反対する人たちの間でよく聞かれます。たしかに、英語力の基礎が日本語力にあるのであれば、小学校では日本語教育に専念する方が良さそうです。
しかし、「外国語の力が母国語の力を超えることはないので、母国語の力が低い人は外国語の力も低い」というのは本当でしょうか。
「外国語の力が母国語の力を超えることはない」というのは、きわめて特殊な例外を除いて正しいと考えてよいでしょう。「母国語の力が低い人は外国語の力も低い」という主張は極めて実証的な問題ですが、正の相関関係があることは確実であり、その相関関係の度合いも割と高いと思います。要するに、国語の成績が良い生徒は英語の成績も良いという傾向は確実に見られるということです。
でも、キムタツ氏の主張はおかしいです。どこがおかしいかというと「ので」の部分です。「外国語の力が母国語の力を超えることはない」から「母国語の力が低い人は外国語の力も低い」は導き出されません。キムタツ氏と親交のあるマーク・ピーターセンは、「日本人の英語はなぜ間違えるのか?」(集英社インターナショナル、2014年)第9章で、日本の中学英語教科書は「論理の飛躍」が多いことが指摘していますが、キムタツ氏の主張も「論理の飛躍」です。
「スキーの方がスノーボードよりも滑降が速いので、スキーが下手な人はスノーボードの滑降も遅い。」
「タワーマンションの最上階が通常のマンションの最上階より低いことはないので、普通のマンションに住んでいる人はタワーマンションに住んでいる人よりも低い階に住んでいる。」
「英語のボキャブラリーが母国語の日本語のボキャブラリーを超えることはないので、日本語のボキャブラリーが豊富な人は英語のボキャブラリーも豊富である。」
これらを聞いて何も疑問を感じない人はちょっとやばいかもしれません。
では、「で、英語力向上の土台となるのは母国語である日本語力です。それは言うまでもない。外国語の力が母国語の力を超えることはありませんので、母国語力が低い人は外国語の力も低いということになります。」という発言に戻ります。下の表を見てください。
日本語力/英語力 | 日本語力が低い | 日本語力が高い |
英語力が低い | A | B |
英語力が高い | D | C |
キムタツ氏は「Aは正しい」と主張しています。「日本語力が低いと英語力も低くなる」という主張です。そこから敷衍して、「英語力をつけるためにはまずは日本語力をつけないといけない」、つまり、「日本語力をつければ英語力がつく」という主張をしています。つまり「Cは正しい」と言っているわけです。
私はその主張はおかしいと思っています。ではキムタツ氏の主張のどこがおかしいか見てみましょう。
英語力向上の土台が日本語力であるのが正しいと仮定した場合─十分な因果関係がある場合
キムタツ氏の主張が正しければ、英語力をつけたい人は国語の勉強を重視するのが得策ということになります。日本語力を引き上げることで英語力もつけるという戦略です。
国語の勉強となると、語彙力をつけて、日本語文法を学んだうえで、評論文や物語文の読解力をつけるための学習が思いつきます。評論文の学習では、筆者が肯定的・否定的にとらえている表現を見つけ、それらの主張を統合する一貫的な議論が何か把握する能力をつける必要があります。物語文の学習では、個々の場面をイメージ化し、登場人物の視点から彼(or彼女)の心情を整理し共感しながら文章を読み進める必要があります。国語力をつける一番手っ取り早い方法は漢字を覚えることです。となると、「英語力をつけるためには漢字学習、例えば桐原書店の「上級入試漢字─国公立入試対策」をまず使わないとね。」といった主張をする人も出てくるかもしれません。
「何をバカなことを」と思われるかもしれませんが、母国語力と英語力の間に正の因果関係があれば、「母国語力が低い人は英語力も低い」➡「母国語力が高い人は英語力も高い」➡「母国語力を上げれば英語力も上がる」➡「国語の成績を上げれば英語の成績も上がる」という結論が導き出されます。
しかし、この主張に納得して、英語の成績を上げるために漢字学習を始める中高生はほとんどいないと思います。いや、まったくいないでしょう。日本語力が上がったからといって、即、英語力も向上するわけはないからです。なぜ「わけはない」かというと、母国語力と外国語力の間に因果関係はほとんどないからです。
国語の成績が良いと英語の成績も良い─因果関係ではなく相関関係
国語を勉強しても英語の成績が上がるようにはどうしても思えないが、かといって日本語力の低い人が簡単に英語ができるようになるようにも思えないし、英語の成績が良い生徒は概して国語の成績が良いようにも思える。これが「矛盾」しているように見える人は相関関係と因果関係の違いをよく理解できていません。日本語力と英語力の間には高い相関関係があるが、因果関係は低いためこういうことが生じます。
「相関関係」はcorrelationと訳されます。associationやcovariationとも言います。二つの変数(variable)の間で、一方の値が変化すれば、他方の値も変化するのが相関関係です。「因果関係」はcausation、causalityもしくはcausal relationshipです。Aが原因となってBという結果が起きるのが「因果関係」であり、Aは独立変数(independent variable)、Bは従属変数(dependent variable)と言われます。AとBの間に因果関係がある場合は、必ずA・B間に相関関係もありますが、逆は必ずしも真ではありません。つまり、相関関係は因果関係であるための必要条件ではあるが、十分条件ではないということです。AとBの間に因果関係があるためには、以下の3つが成立していないといけません。
1. 相関関係 (covariation)
AとBの間に因果関係があるためには、AとBの間に相関関係がなければいけません。因果関係のない相関関係はあるが、因果関係があるためには「必ず」相関関係がないといけないわけです。相関関係には「正の相関関係」と「負の相関関係」があります。Aの値が上がるとBの値も上がる場合が「正の相関関係」(positive correlation)、Aの値が上がるとBの値が下がるのは「負の相関関係」(negative correlation)です。
2. 時間的先行性 (temporal precedence)
「AがBを引き起こす」(B is caused by A)という因果関係が成立するためには、「AはBよりも前に生じている」(The cause must come before the effect.)という時間的先行性が成立していないといけません。たとえ、「国語の成績が良い生徒ほど英語の成績も良い」という相関関係が見られたとしても、「国語力➡英語力」ではなく、「英語力➡国語力」なのかもしれません。つまり、「外国語を学ぶことで日本語の語彙や文法の特徴を見出し日本語力もつく」可能性もあるので、国語と英語の成績がどちらも良い生徒を見つけたからといって、「やっぱり英語力向上の土台となるのは母国語である日本語力」とは結論づけられないということです。因果関係が成立するためには時間的先行性が必須です。例えば、テレビの視聴時間が長い子供ほど情緒不安定であるという統計結果が出たからといって、①テレビを長く見ると情緒が不安定になる、②情緒が不安定な子供ほどテレビをよく見る、のどちらが正しいかはわかりません(この2つは「双方向(bidirectional)」の可能性もあります。情緒の不安定な子ほどテレビをよく見、テレビをよく見ると情緒がさらに不安定になるのかもしれません)。
ちなみにここまで「母国語力(日本語力)」と「国語の成績」、「外国語力(英語力)」と「英語の成績」をほぼ同義語扱いしていますが、厳密に言うと二つは異なります。「語学の力」を「操作化(operationalization)」したのが「学校の成績」であり、それがどれだけ正しいかは「学校の成績」という指標の「妥当性(validity)」と「信頼性(reliability)」を調べる必要があります。実はこの妥当性と信頼性を客観的に調べるのはかなり困難なのですが、キムタツ氏は語学力と語学の成績を同義語扱いしている節があるので、キムタツ論では「母国語力=国語の成績」、「外国語力=英語の成績」と見なして話を続けます。
3. 剰余変数の排除 (elimination of extraneous variables)
AとBの間に相関関係があり、AがBより先に生じていても、即、AとBの間に因果関係があるとは言えません。別の変数CがAとBを引き起こしているかもしれないからです。その場合、AとBの関係は「疑似相関(spurious correlation)」ということになります。例えば、(A)子供の靴のサイズと(B)知識量には高い相関関係が見られますが、それは「疑似な」(spurious)な関係にすぎません。(A)と(B)は共に(C)年齢の影響を受けているからです(「子供の年齢が高くつなるにつれ、靴のサイズは大きくなり、知識量が増える」)。「実験的研究(experimental research)」ではこの剰余変数の排除が比較的簡単にできますが、ほとんどの社会科学的研究では実験ができないため、剰余変数を排除した議論が非常に困難になります。キムタツ論に話を戻すと、たとえ国語の成績と英語の成績に相関関係があったとしても、別の要因が国語と英語の成績ともに影響を与えている可能性を排除しないと、2つの間には因果関係があるとは言えません。
本当に「母国語力が低い人は外国語の力も低い」のか?
本当に母国語力と外国語力の間には正の因果関係があるのでしょうか。相関関係はあるはずです。つまり、国語の成績の良い生徒ほど英語の成績も高いという傾向はあります。しかし、相関関係はあっても因果関係はほとんどないかもしれません。因果関係があるためには以下の5つの可能性を排除する必要があります。
①ただの偶然(coincidence)
国語力と英語力の間に相関関係が見られても、たまたまという可能性です。「たまたま」というのはAという調査ではそうであっても、繰り返し調査したら相関関係が見られない結果が続々と出てくるということです。国語の成績と英語の成績の相関関係は一貫して見られているはずですから、この可能性を考慮する必要はないかと思います。
②逆因果関係(reverse causality)
国語力と英語力の間に因果関係があったとしても、それは「国語力➡英語力」ではなく、「英語力➡国語力」の可能性があります。中高生が習う英語は初心者レベルなので、私自身は「英語力➡国語力」という関係は大したことがないと思っています。しかし、この可能性をまったく排除する根拠もとくにありません。
③相互因果関係(bidirectional causality)
「国語力➡英語力」と「英語力➡国語力」がともにある場合は、国語力がどれだけ英語力に影響を与えるかどうか調べる場合には、英語力が国語力に与える影響を排除しなければいけません。「国語力➡英語力」に0.5の関係があったとしても、「英語力➡国語力」に0.3の関係があれば、「国語力➡英語力」は実際には0.5マイナス0.3イクオールで0.2ということになります。
④間接的因果関係(indirect causality)
「国語の成績➡英語の成績」の関係があったとしても、国語の成績が上がると直接、英語の成績も上がるのではなく、国語の成績向上は別の変数に影響を与え、その別の変数が英語の成績に影響を与えている可能性です。つまり、「A➡B」ではなく、「A➡C➡B」の関係です。この場合、第三要因が介入しても国語力と英語力の間に因果関係は成立していますが、Cの値を上げる要因は国語力向上だけでない場合は、英語力を上げるために国語力をつける必要は特にないということになります。例えば、国語の成績が上がると、自分は頭が良いと思い自信がつき、外国語学習にも精が出るという場合、自信を持つきっかけは国語の成績向上に限定される必要はありません。
⑤疑似相関(spurious correlation)
①から④までの関係は理屈上ありうる可能性というだけであって、国語力と英語力の関連を考える上で特に重要ではないかと思います。しかし、国語力と英語力の関係は「疑似(spurious)」にすぎない可能性が非常に高いです。なぜAとBの間に相関関係があっても「疑似」になるかというと、Cという別の要因がAとBともに影響を与えていると、AとBの間に相関関係が生まれてしまうからです。例えば、ヨーロッパのある地域ではコウノトリがよく見られる地域(A)ほど出生率(B)が多いそうですが、そこからコウノトリが赤ちゃんを運んでいるからと結論付けることはできません。田舎ほどコウノトリを見かけることが多く、また都会より田舎の方が子供の数が多いから(A)と(B)の間に疑似相関が生まれているにすぎません。
では、国語力と英語力の間の関係はホンモノもしくは疑似のどちらなのでしょうか。わたしは疑似だと思います。
「母国語力が低い人は外国語の力も低い」なわけがないこれだけの理由
国語の成績が良い生徒は概して英語の成績も良いです。しかし因果関係が不明です。元々頭が良いから国語と英語の成績がともに良いのかもしれません。例えば、灘高校の生徒はとんねるずが卒業した帝京高校の生徒より国語の成績がかなり高いはずですが、英語の成績もはるかに良いはずです。その理由についていろんな可能性が考えうるので、皆さんも「なぜ国語の成績と英語の成績の間には相関関係があるのか」という問いに関していくつか仮説を考えてみてください。
キムタツ氏の「英語力向上の土台は日本語力であり、日本語力が低い人は外国語の力も低い」という仮説が正しいとします。その場合、どういうメカニズムで日本語の力がつくと英語の力もつくか思いつかないといけません。それができる人はキムタツ仮説を受け入れてよいと思います。思いつかない人は受け入れるのをやめましょう。
わたしは思いつきません。見当がつきません。英語力をつけるためには、①ボキャブラリーを増やし②英文法と③英語発音を習得する必要がありますが、国語力のある生徒ほどこの①②③が楽という根拠を見出せません。日本語の語彙力が豊富だと英単語を覚えるのが楽になりますか? 副助詞や係助詞などの日本語文法の知識は英文法を学習するのに役立ちましたか? 日本語を正しく発音できると英語の発音も正確にできるようになりますか? 母国語と外国語の力は差が大きすぎるので、「外国語の力が母国語の力を超えることはありませんので、母国語力が低い人は外国語の力も低いということになります」ということにはなりません。Aは「制約」(constraint)にすぎないので、「ので」という表現は間違っています。英語力が日本語力の8割以上あったら「外国語の力が母国語の力を超えることはない」という言明が何らかの意味合いを持つかもしれませんが、大学受験生の英語力は日本語の力の1割もありません。8万人を収容できる野球場と3万人を収容できる野球場のどちらの方が観客は多いでしょうか。プロ野球が常に満員に近い観客を集められる人気スポーツであれば前者の方が絶対多いでしょう。しかし、平均入場者数が1万人程度であれば、どちらの野球場の方が観客が多いか当てることはできません。
同じように英語力が母国語の力とかけ離れているのであれば、日本語の潜在力は英語力を推測するうえで何の役にも立ちません。英語ができるようになりたい人は、国語のことは忘れて英語の勉強に専念することをお勧めします。
PS (2018/10/03)
国語の成績はたいして良くないのに英語の成績は抜群に良いツイッターのフォロワーさんのツイートを貼っておきます。通っている高校は偏差値50くらいのごく普通レベルだそうです。